51.5月の終わりくらい 瞼の重たかった日

1.

 パチンコを始めてみた。

 頭を使うのが嫌で、何も考えることなく過ごせる時間が欲しかったので今月から始めてみたのだけれど、思った以上にのめり込んでしまった。ハマったハマらなかったという話ではなく、ただ「することがある」という状態が心地よかったのだと思う。仕事が終わってパチンコを打ち、休みの日は起きてから夜まで店に入り浸り、ぼんやりと右手を捻って銀玉が釘に弾け、転がり落ちていくのを見守る。台の真ん中にある穴(ヘソというらしい)に入ると数字が回る。1000円で十数回転しかしないのが妙におかしくて、数字も回せず消えていく玉がほとんどだなあと眺めていると、ちょうど人間みたいだなと思う。穴に入る成功者と零れ落ちる落第者。成功者になってもそこからさらに大当りかどうかの抽選があって、パチンコを社会の縮図と言うにはあまりに矮小だけれども無性に面白かった。当たればそこからまた連チャンになるかの抽選が始まって、連チャンを引けば大成功。ちょうど人間もそんな感じだよね。自分はたぶん穴に入ることができて当たりそうな演出も出たけれどあっさり転落した人間だから妙に親近感を覚えるタイミングが多い。お金と交換で打ち出される玉を眺めているだけで時間が過ぎる。大半の時間は何も起こらない。何も考えない時間だけが過ぎて、何もしていない時間だけが経って、ふと我に返りそうになると演出が始まる。ただただお金と時間だけが浪費されて、なんで生きているんだっけ?

 

 今日は2万円くらい財布が軽くなって閉店前にバスに乗り込んだ。行き先を見ていなかったから着いたのは最寄りの隣駅で、トボトボ歩いていると足取りの覚束ない老人が警察に付き添われて歩いていた。なにも疾しいことはないのにどうしてか視線を向けることができず、下を向いて歩いていると警察の話し声が耳に入ってくる。

どうしてついてくるんだよ。

いやいや、お爺さん一人で帰れるか見ていて不安なんだよ。

 将来自分もこんなふうに警察のお世話になるのかもしれないと思うと焦燥感が掻き立てられて、余計に何をしているのかわからなくて、両親は何を思って人を産んだのか。いや、何も考えてないよな。人間である前に生き物として種の存続が本能に染み付いているんだから。だというのに自分は自分を害することばかりしていて、なるほど苦しいのは本能に逆らっているからなのかもしれないと考えたところで家につく。扉を開けると気持ち悪い宗教かぶれの名言を書きなぐった張り紙が視界一面に入ってくる。心がくさくさしてどうしようもないな。本当、なんなんだろうね。

 

 

2.

 情報を咀嚼することが苦手になった。

 本を読んだり文章を書いたり、そういうことが難しい。仕事なのにね。ひたすら頭を使いたくなくて音楽だけを聞いているのが一番楽だよ。音楽は音が気持ちよければそれでいいし、歌詞だって深よみせずそのまま理解できるから。少し前の自分はそういう浅いものが死ぬほど嫌いだったのに今はもう抵抗もないから、少し前までの僕は死にました。僕はこれから新しい僕として生きていきます。

 

3.

 ずっと承認欲求のことばかにしてたけど自分に才能がないことを認められるようになってくると、承認欲求あるのは大切なことだなと考えを改めました。昔の全能感は遥か遠く、何も変えられない毎日は苦しさしかありません。始まるのに遅いことはないけれども、気付くのに遅いことは多々あって、世の中は厳しいなあ。