50.6月のはじめくらい ひどく腰が痛い日

1.

 「キチガイは書きやすいからね」

 在学中F先生に言われたことが未だに頭から離れない。別に恨んでいるとか反発しているとかではなくて、自分の文章はそう読まれるのかとひどく悲しかったから覚えている。自分としては普通にノスタルジックで退廃的な閉じた世界の話を書いたつもりがキチガイの話だと読まれてしまったら誰でもそうなると思う。

 ただこの話の本質はそこではなくて、普通に書いたものが取り繕ったキチガイだと思われてしまうということは、少なからず自分はそう思われているというわけで。自分では普通にしているのに周りからは「あいつはキチガイのふりをしている」なんて思われるのは甚だ心外なわけで。それはつまり演技臭いとか嘘くさいとか、そう思われているのと同じなのでは?

 でもまあそう思われるなら仕方ないし、なんというか、しょうもない生き方をしているから大人になれていなくて、子供が頑張って背伸びをしているようなものなのだと思う。最近はこの幼さがどうにも恥ずかしくてなんとか大人らしく振る舞おう、大人らしさを身に着けようと努力していますが、大人らしさとはなんぞやという軸が見つからないからままならない。いつだって誰かの承認を求めている気がするし、慰めてほしいと思っているし、それは大人らしさとか成長ではどうにもならないことで、自分という人間の本質そのものが幼稚ならどうにもならないのでは?

 

 

2.

 ちょうどこの日記で50回目だと思う。

 なんとなく数字を見ていて気がついたのだけれど、自分は気持ちの持続が極端に短い気がする。だいたいどんなものでも3ヶ月経つと飽きるか嫌になるかどうでも良くなっている。三日坊主ではないのが救いだけれど、一般的に言えば3ヶ月はなにかの結果が出始めるはじめのタイミングくらいなはずで、そこに気持ちの区切りがあるということは、結果をなぜか怖がっているということなのかしらん。

 例えばこの先闘病することになって長い治療が必要です、なんてことになっても3ヶ月したら嫌になっていそう。そう考えるとこの年まで生きていたことは素晴らしいと思いませんか。3ヶ月の……何倍だろう? まあそれはどうでも良くて、単純にやめる機会がなかっただけの話だね。

 

 

3.

 今朝起きたときは大丈夫だったのに、電車に乗る間際になって途端に腰が猛烈な痛みを訴えてきた。

 その話を人にしたら「それはストレスだよ」と言う。ふーん、ストレスも最近は腰に来るものなのか。つくづく自分はストレスに弱い生き物だなあ。というふうに思っていて、そういえば今のマットレスを買った日にも同じように腰が痛くなったことを思い出した。よく枕が変わると眠れないとはいうけれど、自分の場合は床からマットレスに変えたことがストレスになっていたのかと思うと、生き物としての世界ランクがあまりにも低い気がして悲しい気持ちになりました。