47.6月の終わりくらい 雨の下で弁当を食べた日

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 なんで文学なんて選んだんだろうなあと考えています。

 一応出身は文学部で、というか一応も何も第一志望が文学部だった。父親は経済や法律に行けと言っていたし、事実出身大学以外では文学部に出願することすら許されなかったので、道としては文学に進まないものの方が多かったはずなのだよね。それがなんの因果なのか引っかかってしまって、卒業してしまった。それも卒業研究なんかもしないで。

 もうこの事実が自分の薄っぺらさを象徴しているようで、ふとそれを思い出したときの気持ちと言ったら! 元々赤面してしまうような情けない記憶ばかりなのに、そこに新たにそれが加わっているのを考えると、もうやりきれない気持ちになるのだよね。好きなものだけを読んで、書きたいことだけを書いて、それじゃあ小学生じゃないかと思う。

 何もしていなくても認めてほしい承認欲求の塊なんて唾棄すべきだ、この世に出してはいけない、スクラップにするんだ。プレスされて混ぜ合わされて溶かされて、最後には新しい型にハメてもらうんだ。いや、新しい生を得たいわけじゃないからそれは必要ないな。溶けたならそのまま固めることなく液体として流れるままにしておいてくれ。

 

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 なんでこんなことを考えてしまうのかというと、お金にならないからです。

 最近気が付きました。趣味はお金になりません。お金にならないものは暮らしていくのに必要ありません。お金がなければ生きていくことはできません。

 生きていると怖いものはたくさんあると思うのだけれど、僕が何よりも怖いのは死ぬことで、そこから逃げるためには生きないといけない。生きるためにはお金がいる。文学と文章はお金にならない。つまり生きていけない。ここからわかるのは自分が致命的なミスをしていることですね。

 なんと僕はあろうことかお金にならない文学を学問として選び、その上に文章をお金にしようとしたのです。

 書くだけでお金になる。これはいいぞ天職じゃないか。そう思ったのもつかの間で、ノータリンくんは現実を見てしまいました。幅の狭い業界、書きたくもないことを書く仕事、というよりも詐欺。頭を下げてまでお金にした文章はなんと詐欺だったのです。これにはノータリンくんも参りました。しかし実績のないノータリンくんは職場を離れることができません。次第に最初にあった罪悪感は薄れ、どうすればうまい詐欺の文章が書けるのかを考えるようになりました。数字を見て一喜一憂する日々。答えのない文章に答えを求め、人生は放り投げようとしています。あーっとそれはいけませんあまりにも愚かです。惨めです。愚の骨頂です。しかしながらノータリンくんにはその選択肢しかありえないのです。文字単価に換算してしまえばおそらく0.7円程度の仕事で給料もほぼ上がらない仕事、さらに転職先もありません。これでは家を出ることもできない。いやまあそれは人間として家を出ようとした場合に限るのだけど、例えば死体として出荷されたくはないし、そのへんでの垂れ死にたいとも思わないので、やはり家を出ることはできない。

 人生はやり直しが効くなんて言いますが、あれは才能のある人だけなので騙されてはいけませんよみなさん! 才能のない僕のような人はやり直しは聞かないし、選択を間違えたならそこで終わりなんだから!

 本当、なんで文学なんて選んだのだろうね。そう思いながらも文章に縋って生きているのは生き恥を晒しているとしか言いようがない。恥ずかしくはないのか。