44.2月のはじめくらい なんでもない日

1.

「よほど寝相がひどいか姿勢が悪いかじゃないとこんなに変な偏りは生まれないし、体もバキバキにはならないよ」

 と、整体の先生に言われました。寝相は悪くないし、姿勢だって猫背である以外は人並みの姿勢だと思うのだけど、体はあまり良くない状態らしい。確かに仰向けで横になると脇腹が張って気持ち悪いし体はまっすぐに伸びないけれどそんなに言わなくてもいいじゃないかと背中肘を入れられながら思いました。

 ただなんというか、心配してもらえるというのは幸せですね。向こうはお金をもらう仕事としてで、僕は客でしかないのだけれど、誰かと触れ合いながら会話を、しかも心配してもらえるような内容の会話をできると幸せだなあと思います。

 たぶんメンヘラなんですよねこの考え方。世の中の女性を敵に回したいわけでも馬鹿にする意図もないのだけれど、自分が女性だったら迷わず風俗で働くことを選ぶだろうなと思う。そんなに長くは生きたくないし体への負担とか病気はもうどうでもいいよ。そんなことよりもある程度不自由しないお金が入ってきて、なおかつ人と会話ができて、身体の触れ合いがあるならそれでいいんじゃないかしらん。

 ごちゃごちゃ考えたって人間も生き物である以上根っこは簡単なのだなあ。男でメンヘラとか美形でもない限り誰にも相手にされないから頑張って真っ当に生きているように見せるほかないのだけれど。こう、モテない男がよくする「男女の価値が逆転した世界」みたいな世界に生きることができたなら、真っ先にそういう生き方に飛びつく自信がある。人に頼って生きていきたい。

 そんなことを考える暇があればおれは布団を買って布団で寝るべきなんだけれどね。

 いい加減、冷たい床にタオルケットを二重にして羽毛布団をかぶって寝る生活はやめたいのです。ただそのためにはどんな布団を買ってもすぐにカビてしまうこの部屋を出る必要があるし、けれどもそんなお金は手元にはない。長く働けるような気もあんまりしない。部屋を出るのが先か、気を違うのが先か、はたまた別なのか、チキンレース開催中ですよみなさん! 胴元は僕なのでたくさんお金、掛けて払ってくれていいんですからね!

 

2.

 何人かの知り合いと職場の人には面白話として提供したのですが、母親が家を出ていきました。

 いつ帰ってくるのか、それとも帰ってこないのか。

 そのへんはあまり気にしていないのですが、出ていった理由が「熊本の天草で農業を始める」とからしいので、それだけが気がかりです。始めるのに年齢は関係ないとはいえあまりにも無謀ではないでしょうかお母様。なぜ縁もゆかりもない熊本なのでしょうか。お金は、家は、車は……と、言いたいことはたくさんあったのだけれど、考えている間に飛行機で飛び立っていきました。

 家に残されたのは頭の悪い僕とニートの弟、唖然とした様子の父。うーんどうしたものだろう、と考えていたら、この週末になって父も帰ってこなくなった。

 残されたのはニートの弟とダメダメな僕。人生は難しいなあ。とか、ぐだぐだと考えていても状況は好転しないし、二人にラインをする気も起きない。両親の実家は知っていたのだけれど僕の携帯の電話帳はいつ壊れてしまったのか、誰のデータも入っていないので電話をすることもできぬ。

 なので今は羽毛布団に包まって、暖房のない部屋の寒さに耐えながら明日の出社時間を待つしかない。あ、両親ともいなくなったから布団を使える部屋もあるのか。いやでも、なんだか出ていった人たちの部屋で眠るのは嫌だなあ。ただでさえ家に囚われているみたいなのに、余計その考えを拗らせそうだ。

 明日はなんだか20度くらいまで上がるらしい。そうなってくれば春もすぐそこだよね。そうしたら部屋も寒くなくなるし、少しお金が貯まったら、少しだけいい布団を買いたいな。柔らかい布団の上で、暖かいものに包まれて眠りたいものだよね。

43.1月のはじめくらい 蛍光灯が切れた日

1.

 年、明けてましたね。

 あけましておめでとうございます。

 無粋な人はここで何がおめでたいんだとか言うと思うのですが、というか漏れなく自分もそちら側の人間ではありますが、新年早々から人の苛立ちを買うような真似はしたくはないし、明けたこと自体はめでたいのでそういうことは言いません。今年も滅びることなく新しい年を迎えているのだから、それはそれで素晴らしいじゃないですか。ありきたりなことを言えば当たり前ほど有り難いものはないってことなんでしょう。

 でも、それはさておいて、こうして季節ごとにこの国では催しがあるけれども、それはたぶん国民性からではないと思うのだよね。誰もが感じているだろうこの狭苦しい四方を海に囲まれた島国だからこそというか、そうしたイベントごとがないと、息が詰まって現実に殺されてしまうんだろうなと思います。

 それはこの国に限らず世界中どこにでも同じことが当てはめられて、つまるところ思考なんてものをできるがばかりに、一年の中にも意味を見出さないとみんな狂ってしまう。毎日がなんとなく過ぎ去って、それで終わっていく人生だなんて誰も考えられないのは、そんな人生を送っている間に自分が狂ってしまうからですよ。だからこうして新年を狂わずに迎えることができてよかったね、よかったよかった、今年もまた狂わないように死んでいこうと思うわけです。

 結局、無粋なことを言ってしまった気がする。

 

2.

 違うんです。こんなことになったのは自分のせいではない、とは言い切れませんが、幼少期のトラウマのせいなんです。

 みんな自覚はないかもしれないけれど大人が子供に与える影響って計り知れないほど大きなもので、僕もその影響下で育ってきました。家のことは話すと長くなるので割愛しますが、こちらもまともなものではなかったことだけはお伝えしておきます。家の中での唯一の救いは5歳離れた弟の存在で、本当に小さな頃はいつもピッタリとくっついていた気がする。

 とまあそれは別の話で、もちろん小学校にもトラウマがたくさんあります。よく覚えているのは文化週間だかなんだか、そんな期間のことで、校内に生徒と保護者、それに附属している老人ホームの人たちの作品が展示される時期があったのです。その期間中はクラス毎に一通り見て回りましょうなんて、見て回ったのですが、保護者の作品の中にろくでもない物があった。

 そのろくでもない物はしょうもない大人がしょうもない気持ちを込めて作ったものだろうと思ったのだけれど、どうにも死を連想させるようなもので、これのことを僕は未だに恨んでいる。どうして生の真っ盛りにいる小学生にそんなものを見せないといけなかったのかと、思い出すだけでムカムカしてくる。奥歯に力が入って顎が痛くなる。この作品がトラウマになっているとこに気がついたのは大人になってからだったけれど、いま僕があの作者に出会ったら張り倒してやりたい。もう死んでいるかもしれないけど。

 あと、それとは関係ないけれど老人ホームとの交流も嫌でした。死臭の漂う老人たちに囲まれて、見えているのかいないのかわからない目が僕を見ていて、その中心で見世物をやらされた記憶はあまりいいものではない。でもゾンビみたいな拍手が返ってきて少し嬉しかったのは覚えている。いまでもあのゾンビたちが入れ替わって、その中心で見世物をやらされている小学生がいるんだろうなあと思うと、そわそわした気持ちになりますね。代わりに僕の死に様でも見せてやって、シワト同一化した目が見開かれるのを笑ってやりたい。

42.1月のはじめくらい 町の静かな日

1.

 ちゃんと確認したわけじゃないからわからないけれど、そろそろこのブログも1周年くらいなんじゃないかと思いました。おめでたいね。仕事もろくに続けられず1年ちょっとで辞めた人間がこんなに同じことを続けられる、それは素晴らしいことだと思います。この世の大迷惑たる人間にもできることはあるんですね。

 

2.

 お金なんかはちょっとでいいのだって、そう思っているけれど、お金は大切ですよ。毎回毎回コンビニで年金やら保険やらの督促状を出して料金を支払うのは恥ずかしいものです。恥ずかしい。もう生きてることが恥ずかしいからこれ以上はないと思っていたのだけれど、恥ずかしいものは恥ずかしい。

 一体どんな顔と身なりで督促状を持ってお金を払いに行けばいいのかとこれまで数回試行錯誤をしてみたのですが、だらしない服装とボサボサの髪で支払いを済ませるのが一番違和感のないスマートさを演出できるものでした。スーツはあまりよくない。スーツは社会人の一員である証だと思うのですが、そのスーツを着ているにも関わらず督促状なんか持っていくと「あ、ニートが無理してスーツ着てる」みたいな目を向けられることになります。これはあまりよろしくない。事実ニートだったのでぐうの音も出ないのですが、人は真正面から言われると傷つくことだってあるんです。

 次に若々しい学生っぽい格好、これはまあ及第点でしょう。学生っぽい服装で督促状とか持っていくとなんだか苦学生感が出ますよね。たぶん店員さんもどうじょうしてくれるでしょう。ただしこれには落とし穴があって、そもそも学生の間は年金とかの支払いが免除されてるので賢い店員に当たってしまうと、これまた変な目で見られてしまう。若いと自営業感も出ないから余計疑いの目を向けられる。いや、疑いも何もちゃんと支払いに来ているじゃないか、督促されてしまってはいるけれど、ちゃんと現金で払おうとしているんだぞ! と、強気の態度を取ってみても違和感を持たれることに変わりないからね。深夜のワンオペ時とか、頭の悪そうな店員がレジをしてる時間ならおすすめできるかもしれない。

 そして最も適しているであろうだらしないファッション、通称深夜ドンキファッション。これはおすすめです。元がだらしないのでそこから何をしても引かれたりすることがない。早く帰ってほしいオーラは出されますがそれだけです。おすすめ。ハーゲンダッツとか買うと「だから貧乏なんだよ」って露骨に態度に出される。でも僕もそう思います。

 

3.

 この間、上司から最近読んでいる本を聞かれた。別に熱心に読んでいるわけではないけれどその時たまたまカバンにはカフカの短編集が入っていたから、それを伝えようと思ったのだけれど、何を思ったのか「カントの短編集」と言ってしまい、上司は困惑した顔で「カントって作家は知らないなあ……」といい、僕は僕でカフカと伝えたつもりでいたので頭大丈夫かよこいつと思いながらも「ドイツの古い作家で……」とさらに自分と上司に追い打ちをかけ、その場はなんとなく流れていきました。

 帰りの電車で本を取り出したときにそのことに気づいて、うわあ恥ずかしいことをしたなあと思ったのですが、僕は奇跡的に嘘はついていない。カントは思想家ではあるものの本は出していたはずだし、ドイツ人なのも間違いではなかったはず。なんという偶然か噛み合ってしまった。まあ、たぶん短編集はないだろうけれど。あの人がわざわざ探してまで読むことはないだろうと高をくくっている。

 ちなみにカフカは読んでいてイライラしてくるので、一通り読み終えてから資源ごみに出しました。

 古い作家って、やたら難解な文章が評価されていたりするけれども、それって単にお前の文章力が低いだけなんじゃあないんですか? わかりやすく書けばいいものを無意味にぐちゃぐちゃと書いて、なんだかそれっぽくしているだけなんじゃないだろうかと思うときがある。

 作品に豊かな要素を持たせてくれるのは嬉しいけれど、行き過ぎた栄養は毒になってしまうし、甘すぎるお菓子は嫌われるでしょう。ちゃんと言葉を紡げ。自分の中で完結するな。そんなこともできないから現代になってもだらだら研究されてるんだよ。いっぺん死んで書き直してこい。

41.12月の終わり 人の少ない日

朝、ネットカフェから外に出たら人も車も少ないのを見て今年の終わりに気が付きました。

 

今年はどんなことがあったとか考えながらバス停まで歩いて、思い出されるのは数々の失態、失敗。

 

来年はどんな年がいいとかはもうこの歳になるとあまりありませんが、花粉が嫌なので花粉の少ない年になるといいなとは思います。

 

僕はこれからまたネットカフェで一晩を過ごすので年末も年始も実感が薄いですが、なんとなくみんなが終わりを感じていることの伝わってくる一日でした。

 

隕石が落ちてくる日とかも、こんな空気なんでしょうね。

 

みなさん、どうぞ良いお年を!

40.12月の終わりくらい 初めてシフトを提出した日

1.

 なるべく土日を休みにして人様と大差ない生活をしたいなあと思っています。

 こう書いてわかったんだけれど、どうにも僕は人との同調性というか一致性というか、とにかく人からズレることを嫌うんですよね。だけれども心はそれを嫌ってズレたことをしたがり、それを本能が嫌うというひどい自己矛盾が常に発生している。自分の中に何人か自分が住んでいるような一貫性のなさ。ため息も出ない。

 

2.

 もう年末ですね。

 先月の終わりくらいに最寄りの踏切でまた人身事故があって、それから少しの間そこを通るのを避けていたのだけど、この間通ったら花が供えてあった。たくさんではなくて二、三人が供えてくれたんだろうなとわかるような小さな花束が積んであって、事故で死ぬことは知らない人にまで小さな傷を残していくものなんだろうと思ったのですが、昨日ふと見ると花は枯れて新しく供えられる気配もない。

 知らない人が死んだって、みんなすぐに忘れちゃうんですよね。いやそれにしたって家族が供えてあげてもいいんじゃないと思うんですが、世間は年末ですからね。来年に向けて生きている人はいろんなことをしなければならない。死んだ人は死んだ人で愉快にやっているといいよね。

 

3.

 シフトになったら、もしくは今度の休みが来たら、布団と枕を買いたい。

 話したことがあったかどうなのかは覚えていませんが、僕の生活環境はそれはもう酷いもので、外面だけはよくしようと生きている、つまり貧乏人が見栄を貼るようなことをしているので、中身は空っぽ廃れた人生、部屋は荒れ放題といった有様。

 僕の部屋の真下は半地下の駐車場になっているからなのか、それとも日の光がまったく入らないからなのかわからないけれど馬鹿みたいに冷える。毎朝起きる度にくしゃみが出るし鼻は垂れている。というか寒すぎて数時間おきに起きてしまうからゆっくりと眠れない。

 なぜかといえば暖を取る手段が布団乾燥機しかないこともそうなのですが、一番は布団がないことだと思う。

 先に話した事情のせいなのか、部屋の湿気がすごくてすぐに布団にカビが生えてしまうのだよね。干せばいいのかもしれないけれど、家の構造と汚さ故にそれも難しい(だから布団乾燥機を使っていた)。すぐに布団が駄目になるから布団を買うことも嫌になって、ここ何年かはずっと床にペラペラで巻いたりできるマットレスを敷いているのだけど、こんなもの床に直で寝ているのと変わらない。枕はいつの間にかなくなったのでぬいぐるみを枕代わりにしている。

 わかりますか、この虚しさが。毎日起きるのは辛く眠るのは難しい。生きることに向いていない。体が死にたがっている。それもこれも布団がないのが悪い。ふわふわの布団の上ですやすやと眠れる日々を追い求めているんだ。本当に、布団をください。

39.12月のはじめくらい ささみをたくさん食べた日

1.

 タンパク質が足りないんです。

 筋肉はすべてを解決してくれるらしいから頑張って筋トレをしてみているのだけど、まったく効果を実感できない。毎日デンシャノ頭を見ては一瞬飛び込みたい衝動に駆られ、それに躊躇って見送ったあとは自分の首が飛んでいって意識が消える妄想をし、最後には意識が消えたあと自分がどこに行くのかに恐怖し青ざめる。いつも通りの日常です。

 いくら筋トレをしても効果を実感できない。先週風邪で2日寝込んだら3キロ痩せた。なんだこれは。そう、タンパク質が足りないんですね。

 タンパク質……それは人間の体の何割だかを作っている要素。たぶん残りは水。体を作る要素が足りないから筋肉がつかず、筋肉がつかないから調子は悪く、調子が悪いからこんなブログを書いてしまう。

 まさに悪循環。救いようのない現実。でも夢の中にも救いはないよ。

 ここ一ヶ月くらいはタンパク質を補うためにお昼をサラダチキンにしたり、プロテインバーを食べたりしたのにまだ足りないのか。どれだけ欲張りなんだ。

 ということで、昼と夜にサラダチキンを食べてみることにした。正直あの肉の塊に齧り付いていると、あぁ僕は肉を食べているなあという気分になり、目を凝らすと見える一本一本の筋肉繊維に吐き気を覚え、自分も死んでしまえばこのサラダチキンと同じ物体になるのかと憂鬱になります。僕は死体を食べている。ヴィーガンだかベーガンだか忘れたけれど菜食主義者の言い分もよくわかるね、野菜も生きてたんだなって思うと同じような気持ちになりそうだけれど、彼らは動かないからね。つまりは気の持ちようってわけです。

 そんな感じでこれから少しの間は死体摂取増量キャンペーンを実施します。誘ってくれる人もいないけれど、ご飯には誘わないでください。チキン屋なら行きます。

 

2.

 働くのを再開してから、生きるのってお金がかかるなあと改めて実感するようになりました。

 1ヶ月の交通費で15000、昼食代が700*20=14000(サラダチキンは高い)、税金がたぶん30000くらい、これだけで約6万円もなくなっちゃうんですね。

 ニート中の出費は日々のガンダム代と交通費くらいなので2万円くらい。年金とかそのへんは滞納してた。家賃は実家なのでなし。

 こうやって考えると働くことは無駄に人生を浪費しているだけな気がしませんか?

 いや、家を出ろとか、年金を納めろとか、そんな常識の礫を投げないで投げないで。家は確かにもうすぐ売りに出されるだろうし、これはどうにかしないといけない。でもニートの弟がいるうちは大丈夫だと思っています。年金は軽口とかではなく、こんな精神と体調の様子ならあと10年もしないうちにどうやったっての垂れ死ぬでしょう。

 それがわかっているから極度に死が怖いのだよね。余命宣告をされた病人の気分だなあって書こうとしたのだけれど、これは等しく全員が対等なわけで、君たちはどうして余命を怖がらないのか不思議に思いました。世間的に、動物的に考えればおかしいのはどう見たって僕で、自分の欠陥を陽のもとに晒しているようで恥ずかしいですね。

 いったいどうしてこんなことになってしまったのか。

 

38.12月のはじめくらい 鼻水がのどに詰まる日

1.

 風邪を引きたいなあと思っていたら見事に引きました。風邪を引きたかったのはとある事情からだったのですが、というか会社のことなのですが、これは全く健全ではないですね。僕たちは人間である前に動物、生命なわけで、その生命の本能たる生存を脅かすものは間違いなく風邪などであり、現代でこそ薬なんかがありますが昔はそうもいかないわけです。

 たぶん生きてるってことが希薄化してるんですよね。それか過度のストレスに晒され続けておかしくなっている。だって、会社を休むために風邪を引きたいなんて尋常ではないですよ。生きるために死にたいって言ってるのと同じことです。それもこれも現実が悪い。バーチャルに生きたい。みんなそう思うから、スマホ画面を見ながら歩いてるんですよね? 会社でブルースクリーンを眺めているんですよね?

 わかりますよ。もう1日の中で画面を見ていないのなんて、食事のときくらいじゃないかなあ。あ、いや食べながらもスマホを見てるかな。人とご飯を食べることのできる人たちは違いそうだけれど。

 そんなわけで、つまり僕たちは1日の大半を現実という窓からワールドワイドウェブの中を漂っているわけで、これを読んでいる(もしくは書いている僕も)現在進行形で漂っているんですよね。

 そう考えるとなんだか楽しくなってくる。すごいぞ、現実に出向かなくても僕はワールドワイドウェブ上に偏在している。ここにはたくさんの僕の痕跡が残っているし、これからも残り続ける。風邪を引くこともない。休む必要もない。意識がない間は休んでいることと同義だからね。やあ、すごいなあ。

 

2.

 まあそんなところに偏在していたって、現実の体は1つしかないのでこれをどうにかしないといけない。起きている間の苦しみは僕が全部背負っているんです。毎朝毎晩毎時毎秒嫌になるほど苦しんで苦しんで悩み、もがいては落ち、いまはもう諦めて落ちながら空を眺めている。

 人間、遠くを眺めているのが一番楽なんだよね。手の届かないもの。届いちゃうとだめなんです。自分なんかでも届くものなんだって、途端に陳腐でしょうもないものに思えてしまう。ライターだってそうですよ。蓋を開いてみたら、髪の毛がピンクに染まった人とか、井戸端会議が好きそうなおばさん、広島の菊池みたいな顔をしたヒッピーがごちゃごちゃ言いながら書いている。僕はそれを見ながら僕が目指したものはこんなものだったのかと絶望している。あとシフトにも。

 目下のところ、問題というのは問題を解決しないとなくならないんです。何を当たり前なことを。まあそう思いますよね。

 でもその問題が解決できないから、みんな別のことをするんじゃないですか。美味しいものを食べたり、人とボードゲームをしたり、ぼんやりとしながら散歩をしてみたり。大抵の場合、むやみやたらに別のことをしたってたいした効果はないんだ。

 散歩をしたところで僕たちは明日も働かないといけない。ゲームをして勝ったところでお金が増えはしない。食事をして満たされてもそれは数時間の間だけ。

 どうしようもない問題を、別のことに目をそらして見えないようにしているだけだよ。

 だから通勤中は現実を見ないようにスマホを眺めて過ごし、家に帰り着けば虚しさをごまかすためにブログを書く。

 帰り道、ポケモンGOをしていたらおじいさんとおばあさんがジムでバトルをしていた。もう定年は過ぎているだろうし、趣味としてやっているのだろうけれど、彼らの趣味と僕の趣味では重さが違う。その重みに追いつけるまで、僕はあとどれだけ苦しめばいいのだろうね。