12.5月のはじめくらい 目の奥が痛んだ日

1.

起きたら目の奥が痛い。なんだかモニターを見続けたときのような痛さがある。風邪でも引いたのかととりあえず目を開けると電気が、部屋の電気が点けっぱなしじゃあないですか。犯人はこいつだと確信して膝立ちになりいくらか力を込めて電気紐を引き明かりを落とす。カーテンは開いたままだけれど、この部屋はそもそも光が差し込まない監獄のような場所にあるから関係ない。これで安眠してやるのだ。うつ伏せになり、片付けていない羽毛布団を抱きしめてやった。

 

2.

生活にハリと潤いがないのだよね。そう、だから14時なんかに目を覚ましてしまう。

別に僕は自堕落な生活をしたいわけではなく、確かに眠ることは好きだけれども朝と言われる時間には目を覚ましたいし、日が昇っているならば日光を浴びて散歩でもしたい、そういう健康的かつ文化的な生活をしたいのです。

そういう意味で日本の社会人生活は理想に背いている。朝に起きることはできるけれど早朝に起きたいわけではないのだよ僕は。とはいえそんな生活ができるのは誰かって、昔の貴族と今の老人くらいでしょう。

自分はときたら平々凡々な一般市民でしかなく、貴族にも、たぶん老人にもなれそうにないわけで、じゃあどうすればいいのさ。精神的に彼らのようになるしかない。

貴族というと僕の中では優雅にお茶を嗜んだり高そうな服でパーティーに出たりするイメージだ。老人は新聞を読みつつお茶を飲み病院に通う、そんな感じ。少なくとも後者にハリと潤いはなさそうだよね。

ただ唯一共通しているのはお茶を飲んでいることで、思えばお茶を飲んでこれはいいものだなあとか、そういうことを思ったり楽しんだ経験は自分にないものだ。趣味として昇華することはできないことだろうけれど、煙草みたいな趣向品としてこれは中々に優れているのではなかろうか。上司が安そうなペットボトル茶を飲んでいる横で、水筒から高級茶を飲むことは精神的マウントを取れるのではないでしょうか。マウント取ったところで、満足にもなりはしないけれども。

 

3.

思い立ったが吉日ということでお茶を買いに出た。緑茶も紅茶もわからないけれど楽しむなら紅茶だろうかと考えて、新宿にある高い茶葉店に行ってみると、まあ確かに高い高い。100g3000円くらいはどれもする。しかも見た限り数百種類くらい置いてある。

呆然としていると優しげで体格のいい店員がどんなものを探しているのか聞いてくれて、けれどまったく考えていないし知識もない僕は恥ずかしく、たまたま目に入ったmather's day の文字を見て「母の日のプレゼントで来たんです。母は紅茶が好きなんですが、僕はよくわからなくて」とのたまいました。我ながらひどい嘘だなあと思うのですが、親切な店員さんは親切に僕に説明をしてくれて、その罪悪感から茶葉の缶を2つ買いました。合わせて7000円ちょっと。スーパーで買う10倍くらいしそうだ。

ただ買ったときの気持ちは清々しいもので、これがハリと潤いをもたらしてくれるなら安いものだなあ! なんて、鼻歌を歌いながら帰りました。

 

4.

家に帰って箱を開けるとお茶の淹れ方などを説明してくれている紙を見つけた。見つけたけれどうちにはポットなんてありはしないし、ティーカップもどこにしまってあるかわかりやしない。

なのでケトルでお湯を沸かして湯呑にお茶を淹れたのだけど、なんだかこれはよくない気がする。貴族と老人のハイブリットになっていやしないだろうか。ハリと潤いを得るためには、この辺の道具一式も必要なのかなあ。

しかしまあ、今回ハリは得られたのです。高いだけあって香り高いし、味も深みがあるような気がしました。普段からこれが飲めるならいい生活ができそうだ。

これで僕にもハリが出る、潤いを持てる、なんてわけはなく、こんな面倒くさいこともうしやしないでしょう。そもそもお湯を沸かす文化が僕にないので面倒くさいことこの上ない。お茶はペットボトルの中にパックをいれて放置以外で作ったことがない自分が、紅茶でなんちゃって文化生活などできるわけがない。

ので、お茶葉は母親にあげました。いたく喜んでくれたようだし、これを気に家がきれいになったりしないかなあ。しないだろうなあ。