19.7月のはじめくらい 肌が焼け付く日

1.

なんか地震ありましたね。3週間くらい前に。

数年に一度は今日みたいな大きい地震が起きるのに、二十数年生きている中でまだ震源地近くに生きていたことがないのは、なんだかんだ運がいいんだなあと思いませんか? たまに回すソシャゲのガチャとか、人数限定の抽選とかは容赦なくハズレる癖にこういう生存に関わるものには貪欲というか粘り強いというか、本能的に手繰り寄せてる感があると、自分が生きること大好きみたいに思えて人間の実感を得られます。

人間の実感で思い出したというか、常々思ってはいるのだけど、地震とか大きい災害の度に現地の知り合いが心配だとかなんだと言って不安がる人って本当に安否が心配で不安になってるんですか?

知り合いが心配なのはまあわかるんですけど、それを誰かに発信したりするのってなんの意味があるのかさっぱりわからなくて、もしかしてこれは僕の心が荒んでいるからなのだろうかとか本気で考えてしまうのだよね。

だってあれ、傍から見たらただのかまってちゃんじゃない。現地とは離れたところから誰々が知り合いであそこにいて〜って、なら黙って連絡取ればいいのになあと思います。結局、自分の知っている誰かを使って災害の疑似体験をしたいだけなんじゃないかなあれ。知らない人を心配するよりも知ってる人のほうが没入感高そうだし、当事者っぽいもんね。となるとコミュニケーションツール的な側面もあって、それを話題にして誰かとつながる、なんか知ってると思ったらこれただのワイドショーだこれ。国民性なのかね、国民総ワイドショーエンターテイナー。ケラケラ。

ところで当日、朝起きて地震のニュースを見て、そういえば会社はどうなったんだろうとマイページを開こうとしたんですけどアクセス権限なしと言われ開けず、無職なのをまざまざと突きつけられました。無職なんだよなあ。

 

2.

ここから知らない人は何言ってるのかわからない文章になると思うので、読まなくて大丈夫ですよ。

 

3.

この間から瀬戸口(唐辺)の最新作、musica!の先行配信があったのでやってみました。

先に個人的な瀬戸口への解釈というか、そういうものを述べておきます。スタンスみたいな。何人かとは口頭で昔々に話したことがあったりした気がするのですが、実は文章にしたことがなかったはずなので、自分の思考を明瞭にするためにも書いておくと便利そう。

まず瀬戸口名義時代の3作品について。

これは唐辺名義のものにも共通するのですが、彼はやたらとヒロインに物語の主題を語らせたがるというか、もたせたがるんですよね。あぁいや、それは正確じゃないかもしれなくて、主題というか課題自体は主人公自身も持っているんだけれど、一人称だとその主題は見えづらい、主人公からすると当たり前のものになっているから課題と読み手側に認識できない(もしくはむずかしい)ものになっていると思います。それと同じものをヒロインに持たせることで主題の異常性だとかを提示して、あたかもその解決を図るような構図に持っていくのが好きな作家なんだなあと認識しています。

 その主題は瀬戸口3作品については共通していて、自己犠牲の上に成り立つ相互理解および幸せ(もしくはコミュニケーション)だと思ってます。

キラキラについてはあれオーナーの意向が強いのでややわかりづらいですけど、きらりに背負わされてるテーマに絞るとこれで間違いないでしょう。他は忘れた。

 

4.

唐辺名義になると若干構成が変わります。ノベルゲーならヒロインに設定持たせとけばいいんだけど、商業小説ではそれができないから主人公にその性質が引き継がれました。破綻者としての性質が強くなったんですね。一人称で書かれているのも相まって、わかりやすくなったというか、うん、わかりやすい。テーマがわかりやすく露骨になったなあと個人的には思います。他は変わらない。書けることの幅があの人は狭すぎる。

 

5.

そのテーマについて、作中でいくつかの解答というか、そんなものが明示されています。他者理解についてはキラキラできらりが話していたカレーパーティーの話が有名だからそれ調べてください。

幸福についてはいくつかで述べられているけど、Carnivalなら馬の鼻先に吊るされたニンジン、それ以外の作品ではどっかで幸せなんて感じた者勝ちだみたいなセリフあったと思うんですけどそれ。

それと最後にもう一つ、幸福の裏側にある不幸について、それ自体は他者理解とか自己犠牲とかに含まれているのだけど、それに対する極論的な解答が唐辺名義で出してる「つめたいオゾン」なんでしょう。

つまらなかったから話自体はあまり覚えていないけれど、主人公とヒロインは二人の感覚が徐々にリンクしてしまう病気にかかっていて、最終的には体は2つあるけれどまったく同じ人間になってしまうみたいなのがあらすじだったはず。主人公の両親はそれを嘆くんだけど主人公自体は不幸だとは思っていなくて、最後は思考も行動も完全にリンクした二人を見た誰かが幸せそうだなあと思っている独白で終わり、みたいな感じだったと思います。

つまりめちゃくちゃ雑な解決法として自他の区別がなけりゃみんな幸せじゃんって、オタクの皆さんが大好きなエヴァと同じことを書いてあるだけでした。ほんとこれ以上ないくらいの駄作だあ(恍惚)

 

6.

正直なところ、現状の最終作がそんなだったからもう書くことないんだろうと考えてたんだよね。だから復帰したのは意外というかなんというか。

ちなみにmusicaではまーた同じこと書くみたいです。もう十分堪能したよ……。

ただちょっと面白いのが作中で「誰かが作ったことになんか価値はなくて、みんなその背景にあるストーリーに騙されてるだけ」みたいなことを言ってるんですよね。

例えば子供が弾いた拙いピアノを、なにも知らない人に「これは病に侵されたピアニストが最後に弾いたものなんだ」って教えて聞かせればそれらしく聞こえる、みたいな。

少し話は変わるのだけど唐辺名義で出した「電気サーカス」は本人の自伝みたいな扱いをされていて、事実しばらくしてから本人のテキストサイトが見つかってまったく同じ文章があったりしたんですよね。たぶんこの一連の流れ自体は作者本人も把握していて、今回の文章はそれに対する皮肉の側面が強いんだろうなあと感じました。本人そういうの嫌いそうだし。お前ら名義がおれならなんでもいいだろみたいな意思を感じて笑ってしまった。

 

7.

ぐだぐだと書いてきたけど覚え書き、備忘録みたいなもんだから内容は無いよう(激ウマギャグ)。